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Ball Park◆       top 第2回 第3回

「ネットの普及とわがジイチャン」 06.6.28

【第1回】

 私がそれを知ったのは小学生の時。春のある日、母親が一冊の雑誌を持ってきて、あるページを開き、そこに載っている1枚の写真を指差し「これ、誰か判るか?」と私に訊いたのである。それは、元がけっこうな傷だらけとみえるモノクロの写真で、映っているのは野球のユニフォーム姿の、私の知らないひとりの大人の男であった。そんなクイズもどきを母親から過去に出題された記憶もあまりなかったから、いぶかしみつつ、しかし興味をそそられた私は、ネガから起こしたのではなくプリントアウトされたものを再撮したと思しき、当時からしても出自が古そうなその写真をじっくりと眺めてはみたが、なにしろ写真が不鮮明なのと、いきなりの質問なので、クイズを解く場合に必要な出題者の意図を汲み取るということもできず、つまりは皆目正解の見当がつかず「わからへん」というと、母親が「これはベースボールマガジン(週間ベースボールだったか?)ていう本や」とヒントをくれた。その雑誌がプロ野球を主に扱っていることくらいは知っていた私は「なるほど、プロ野球選手やね」と合点はいったが、当時の平均的な小学生の例にもれず、放課後のともだちとの遊びや、夏休みには軟式少年野球のチームでボールを追いかけ、巨人の星にも熱中し、テレビ中継されるプロ野球の対戦カード(ほぼ巨人がらみ)に登場するような主だった選手の顔と名前なども知っていた私にも、その選手が誰であるかは判らなかった。降参した私が「これ誰や?」と訊くと母親から正解が発表された。
「これはな・・・あんたのおじいちゃんや。ほんで私のおとうちゃん!」

 私にとっては衝撃の新事実が母親の口から発表されたその当時、大阪で息子や娘たちと同居し、隠居生活を送っていた私の祖父=母の父=黒田健吾はプロ野球の選手、いや、正しくは戦前の職業野球団の選手だったのだ。記事によると祖父は戦前の阪急(創設時)に入団し、何年間かそこそこの活躍をしたらしく、サードでの守備は「黒田のあり地獄」という呼ばれ方をして、相手チームに恐れられていたとか。


 こどもにとっては大いなる自慢の種を得た私は、以後、友達などに「うちのおじいはプロ野球の選手やったんやぞ」と吹聴したが、例えばそれが父親であり、今も現役で活躍していて時折はテレビにも映る選手というならいざ知らず、なにせ戦前のことで写真も資料も私の周りには何もなく、祖母も今は亡くなり、その長女であり、まだしも7人の兄弟姉妹のうちでは、祖父の選手時代の記憶が最も残り、あわよくば自前の写真の1枚でも持っているであろうと思われる母親も「時々試合を観に行ったけど、なにせ私も小さかったさかい、ほとんど覚えてへんなぁ〜。野球姿の写真も見た覚えないし」という始末では、私の最後の頼みの綱も切れ、当然ともだちに詳しく語って聞かせることもできず、一瞬は「へぇ〜、すごいのう」と驚いてはくれるが、すぐに興味を無くしてしまう。これはもう、存命の本人に訊くしかないと思い、毎年の恒例行事で夏休みに訪ねて行くのを楽しみにしていたら、それからほどなく祖父は亡くなってしまった。  (文/黒田クーリー)

・・・第2回へと続く