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vol.1 「コペルニクス的転回」   06.7.4


 道路交通法が改正され、賛否両論のなか駐車違反の民間取締員制度が導入されてはや1ヶ月以上が経ち、ドライバーはこれまで以上に駐車場所に気を遣わなくてはならなくなり、それどころか、ある場所へ行こうとするときに、そもそも車を使うかどうかという選択に悩むケースも出現するようになった。私などは、自分の運転機会の多さは棚に上げ、「このせまい日本の国土に車が溢れかえっている弊害は事故や公害をはじめ、甚大なものがあるのではないか?」と思っているからして、交通量の多少の緩和という効果も生み出しているのかもと思うと、その部分においては今回の改正には賛成と言えなくもないのだが、しかし、こんな程度の改正ではなく、かつて道路交通法の改正によってコペルニクス的転回と呼んで差し支えないほどの変化を受け入れることを余儀なくされた時代と場所があった。それは、アメリカから日本へ返還されてから数年後の沖縄県である。それまでのアメリカ式交通法から啓蒙・準備期間を経てついに1978年、日本国の道路交通法が適用された。ある日を境として、それまでとは左右逆の運転・通行をしなければならなくなったのである。身体に染み込んだ長年の習慣は、そうやすやすと変えられるものではないことは想像に難くなく、沖縄の人たちのとまどいと苦労はたいそうなものであったろうし、当然のごとく事故も多発したと聞く。適用前の沖縄を走っていた車のハンドルがどちらについていたのかまでは知らないのだが、たとえそれが右ハンドルで、運転スキルに関しては変化がなかったのだとしても、今までセンターラインを挟んで右側を走っていたものを、左に変えろなんて、あまりにも理不尽で急激な変化である。トレーニングを重ね徐々に適応し、その日を迎えたのではないのである。ある日を境にいっせいになのである。事前の心構えなどほとんど無意味だ。考えるだに恐ろしいことである。
 
  私が初めて沖縄を訪れたのは、その大転換から1年後の1979年であった。空港でレンタカー(なんとオレンジ色の117クーペ!)を借り、丸1日かけて本島のおよそ南半分をぐるっと回ったのだが、もちろん車は左側通行で、運転するには何の支障もなく、快適な道中であったのだが、最後にミスをした。首里城からの帰り際、守礼門の前の道路で、Uターンのための切り返しをしようとバックしたところ、道路の端の排水溝に後輪を落としてしまったのだ。まさに門のまん前、10メートルと離れていなかったと記憶している。夕方のこととて、あたりにはまだ観光客らしき姿も多く、さっそく「なんだなんだ」とこちらを注視するから、私の頬も夕日と恥ずかしさで、117クーペと同じオレンジ色に染まってゆく・・・。そんなとき現れたのが、地元の人と思しき濃い顔を陽に焼いたおじさんたちである。あれよという間に10人弱が集まり、私が乗ったままの車をさっと取り囲み車体の下に手をかけ、えいや!と声を合わせたかと思ったら、あっという間に車体が浮き上がり、溝から後輪が脱出していた。まだ20歳前ゆえにお礼の言葉も満足に知らず、口ごもる私に「お兄さん、気をつけて行くのだよ」と声をかけ、恐縮する私を笑顔で送り出してくれた。

  今にして思えば、つい前年に交通の大転換を経験し、運転技術の見直しを余儀なくされ、安全にたいそう気を配るようになっていた時期を何とかクリアしたばかりであろうその頃の沖縄県民であるおじさんたちの顔に一様に浮かんでいた微笑は、占領〜返還〜交通法改正という、コペルニクス的転回を乗り切った者たちのみが持ち得る、不遇なものへの理解と慈愛に満ち溢れたものだった・・・というのは大げさに過ぎるだろうか。

 まあ本当は、琉球観光の象徴ともいえる美しき門の前から、目障りな車とガキをさっさと排除したかったということも多分にあるだろうが・・・。
何はともあれ大感謝の私は、それ以来、沖縄が大好きである。 (文/黒田クーリー)